1978年10月国鉄監修交通公社時刻表の表紙です。画面の少女も50歳前後、まさに光陰矢の如しですね。さて、今回は『急行佐渡3号』新潟行き、列車ダイヤを追いかけてみます。上越新幹線開業4年前、エル特急とき全盛の時代、佐渡号出発の4分前、そして出発の26分後にときに挟まれて出発。急行がまさに特急の補完として名わき役を演じていた時代でした。上野を出ると特急の停車しない赤羽、埼玉県の深谷、本庄に停車して後続のときに抜かれることなく高崎に到着します。高崎では9分後の鈍行に接続し、通過駅をカバーします。伊香保温泉下車駅渋川に停車し、観光客の利便も確保します。
高崎からはローカル急行の色濃く、後続のとき号を後閑駅で待避。水上駅には16:04に到着し、温泉旅館のチェックインに丁度良い時間帯です。その後特急の待避もなく順調に足を進め越後川口駅では、12分で飯山線十日町行きに接続、また少々待ち時間はありますが、当時の飯山線最終列車森宮の原行き18:17発に接続。特急ときの停車しない越後川口駅には、頼もしい存在。
さらにその先東三条駅では、普通新潟行きに接続、特急も急行も止まらない祖父母の家に行くのに使い勝手の良い急行でした。佐渡号は朝7時代、12~13時頃、18時頃、夜行の運行で、乗車機会が多かったのは朝の佐渡1号でしたが、何度か昼の佐渡にも乗車する機会がありました。
昼の佐渡号に乗る記憶で
一番印象に残っているのが
正月明けの1月中旬くらいの事でした。。
乗車日の1週間前に
東京御徒町駅の窓口で
とき号の指定を申込みますが
あいにく満席でした。
駅員さんが代案を探してくれ
急行佐渡の指定が取れました。
当日は両親と3名で
ボックス席へ着席しました。
日没は早く暗くなり始めた越後湯沢駅周辺の雪の量に驚きました。列車の室温も下がり温度計を見ました。そうこうしているうちに東三条駅へ。
各駅停車新潟行きに乗り換え18時頃祖父母宅へ到着。祖父母宅はストーブがガンガンに燃やされ、家の中はとても暖かったです。お盆や正月指定席確保は容易でなく、長時間駅の乗車口看板の前に新聞紙を敷いて自由席に並んだのを思い出します。
特に上り新潟駅には、ホームに『特急とき』自由席待合場所が設置され、そこに並んでから着席できるのは2~3時間後のとき号でした。
両親との新潟への帰省
私の忘れられない思い出です。
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